こどもの時の体験が年齢を重ねても大切になる 「原体験」

こどもの発達

どうも、たにぴーです。

みなさんは、こどもの時の体験で覚えていることはありますか?

近所の友達と一緒になって外で遊んだこと。

飲食店の近くを通った時の香り。

勇気を出して挑戦したドキドキ。

大人に「行ったらダメ」と言われた場所へコッソリ行ったこと。

 

思い出されるのは、景色や誰と居たか。その時に感じた触感、気持ち、匂い、温かさ、味など思い起こされることがいくつもあると思います。

今回は、そんな原体験を掘り下げていこうと思います。

こども自身の時は、案外なんでもアリ

大人になってから、自分のこどもの時を思い返すと鮮明に思い返すものがあります。

私の場合は、年中さんくらいの時に、園内の花壇に大カマキリが居た時に一人カマキリを見つけてみんなに知らせてくれたことを思い出します。

その第一発見者となった子が、みんなを集めてから「僕ってカマキリ触れるんやで!」と胸を張って一同が見守る中でおそるおそる手を近づけると、すぐさまカマキリの両手が彼の方に向けて、子どもの目からでも怒っている様子が見て取れました。

意を決して手を伸ばし、カマキリの顔とお腹の間の筋を掴みとりみんなに恐怖と対峙しながら掴んだカマキリをみんなに見せます。

彼の顔は「どうだ!!」と言わんばかりに誇らしげです。

みんなに見せた後は、怒っているであろう上体を反り返らせたカマキリをそそくさと元の葉に戻して「次はみんなの番だ」と言わんばかりにみんなに僕はやったぞ顔です。

みんながモジモジとカマキリの様子を見守るに終始している中で、私が手を伸ばしてみると、指先に向けてカマキリの威嚇ポーズ。

この時の私は、カマキリの手がはさむとどのくらい痛いのかはわかりませんでしたが、とにかく怖かったことを思い出します。痛いのは嫌ではありますが。

それでも立ち向かいます。

この時の心情は、恐怖より掴みたいという好奇心なんでしょうか。どうしても掴みたい欲求が勝っていたのが子どもならではだと思います。

さっきの彼が掴んだ位置にどうにかして指を伸ばしたいと格闘します。カマキリと格闘するというよりは、自分との戦いのように思い返せば感じます。

ちょっと手を近づければ威嚇のポーズ。今の私であればさてどうしたものかと考えるところもなりふり構わず、もうがむしゃらに掴みどころへと指を伸ばします。

正面がだめなら横から。横からでも気づかれて後ろからとどうにかこうにか試行錯誤をします。

そしてついに捕まえた!と若干の震えといつカマキリに挟まれるのかとの恐怖に抗いながら、それでも強すぎずに人差し指と親指でつまむようにカマキリを手中に収めました。

その時、昆虫博士(どこにでもいる笑)から、「カマキリっておしりに虫を飼ってるんやで」というニューワードを投下します。

全く予期しなかった展開にそそくさと元の葉に戻してやると、私もカマキリも両者疲れきった状態。

達成感とニューワードに疲れた私は、昆虫博士に託します。

博士はおしりをいとも容易く摘み、寄生している虫を取りだそうとします。

ここまでくると戦いの疲れも相まって、よくわからなくなっていますが、関心は掴むことから、カマキリのお腹から何が出てくるのか―――

原体験の意義

と、最後は昆虫博士に取られてしまった感はありますが、私自身がこんなに勇気をもって恐怖より勝るものを行動していたのかと改めて感じます。

改めて「原体験」とは、何か。

原体験とは、「触覚」「臭覚」「味覚」を基本とし、「視覚」「聴覚」を含めた五感(五官)を重視した“直接体験”です。かつて原体験は、幼児から小学校にかけての時期に遊びの中で自然に体験してきたものです。自然の中で遊び、ふれあいを通じて育成される思考力、判断力、表現力などが人間としての「生きる力」となっていくと信じています。

「自然はぼくらの宝物」 (社)全国子ども会連合会 より

上記のように、五感で得た体験こそ「原体験」となっているものだと思います。

私は、過去の実体験から学びえたもの。幼少期に経験したことで自分を確立していくための手段のように言葉から感じます。それらの経験から自分の価値観が出来上がってきた礎となるもの。それが「原体験」と実感しています。

現代に振り返って

保育士として子どもと関わっていたことを思うと、私の時を思うと経験する機会が少なくなったように思います。

外で遊ぶこと。

友達と一緒になって遊ぶこと。

年齢が違っていても集まること。

公園や集える場所、家近辺の子どもの徒歩圏内にある秘密の場所(遊び場)、どろんこになって怒られながらも汚れてもいい環境。

遊び場がこどもを発揮できなくなる要因がいくつもあると思います。

公園では、遊びが制限され、大人が見守れない状態。

親が汚れる前に制止する。

公園に限らず、各所に立ち入り禁止や危険と思われるものに抑制されている社会。

リスクをとれば、責任の無い状態にするのが都合が良いですが、こどもがこどもらしく遊ぶことにまで制限する必要はないと思うのです。

大声を出そうが、走り回ろうが。

危険と思われることを先回りして禁止するのは容易いですが、それだとこどもが本来備わっていく危険予知やリスク回避の感覚が欠落してしまうように思います。

子どもにとって、どこまでが危険でどこまでが自分の能力でできることなのかは、経験することでしか得ることができません。それが、大人からいくら言われようとも、子ども自身で経験したからこそ備わるものだと思います。

ご家庭でもオール電化が進み、火を見たことがない子どもが直に火に手を伸ばそうとするくらい実体験が薄れてきていますから。

まとめ

ご自身で幼少期を振り返ってみて、どのような体験をしてきたでしょうか。

カマキリはほんの一例でしかありませんが、それでもその時のドキドキ、昆虫に触れる、近くに居てる同じ園の子どもたちの空気感、温かい天気、好奇心など今でも情景ごと残っている良い経験だと思っています。

感じたことが記憶というフィルターを通して、”今見ているもの”となって感じられる、影響されているのだと実感しています。

それは、旅行をしているときに自分が受け止めるものにも通じますし、子どもと関わっているときに感じるものや思いとして反映される感覚なのではないでしょうか。

子どもの育ちにとって、また、自身のこれからの経験にも潜在的に大きく関わってくるのではないではないかと思います。

それでは、また。

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